ミュージカル「エリザベート」
エリザベート(オーストリア皇后)/一路真輝 トート(黄泉の帝王)/内野聖陽 
フランツ・ヨーゼフ(オーストリア皇帝)/鈴木綜馬 ゾフィー(皇太后)/初風 諄
演出・訳詞/小池修一郎 
脚本・歌詞/ミヒャエル・クンツェ 音楽/シルヴェスター・リーヴァイ
 
ウテ・レンパの「シカゴ」をロンドンで見て、
もう日本人の演じる外国のミュージカルは見るのをやめようと思った。
何故なら、近年日本人の顔が丸くなり、赤毛ものが似合わなくなったからだ。
45年前、「どん底」を演じた頃の役者は、赤毛ものが出来る顔をしていたのに。

一路真輝の「エリザベート」を見た。
この演物は、宝塚歌劇の雪組で一路真輝のトート、
星組で麻路さきのトートで見た。
また、ウィーンでの公演も見た。
宝塚ではトートが主役だが、本来エリザベートが主役。
これを一路が演じているが、外国の女性が持つ
微妙な心の揺れ動き的なものの仕草とか表現が
どうしても日本人なので、エリザベートから遠くなる。
時には小悪女的な感じもあっていいはずだ。
これは一路本来の素直な性格の結果かも知れない。
皇太子を亡くし、棺の前での芝居はもっと間を取ってほしいし、
それによって湖畔でのフランツ・ヨーゼフとの会話が生きてくるはず。
化粧ももう少し光り輝く感じがほしい。

でも相手役のフランツ・ヨーゼフが鈴木綜馬でよかった。
というのも、性格的に似ているからだ。
綜馬は元劇団四季の芥川英司で、
四季の時代、浅利慶太に芸名をつけてもらい
そのため退団する時には返さないといけない羽目になった。
彼は「オペラ座の怪人」でラウルや「美女と野獣」で野獣を演じたため
そのいい面がここに出たのだ。
立ち姿、歌ともにウィーン風を感じさせた。
役者に必要なのは<風(ふう)>である。

トートの内野聖陽は恋焦がれる女を愛のある死の世界に
引っ張り込むしつこさに欠ける。
もっと右に左にと振り回さないと劇が盛り上がらない。
つまり」<風>が不足しているのだ。
ルドルフは気品と気高さがない。
これは演出上のことだが、トートと皇太子が出会い死ぬところは
二人の口が強烈に合致した瞬間に、一瞬にというものがないのも
この物語の不思議さを欠く一つだ。
このような問題は役者と演出の問題だ。
こうして見ると、いかに舞台は映画やテレビと違うかを
よくわからせてくれる。

ゾフィーはもっと大きな芝居をしてほしいし、
メイクも衣装もせっかくの押し出しの良さを出し損ねた感がある。
昭和51年の「ベルサイユのばら」最後の
「マリー・アントワネットはフランスの女王なのですから」
という雰囲気がほしかった。

舞台上の処理、特に最後の場面など舞台処理が混沌としており
それが「エリザベート」の魅力を半減した。
特にトートとエリザベートの二人の場面で
トートダンサーズが動き回るのは総てを帳消しにした。
それとそれぞれが歌う台詞がよく聞き取れないのも難点。
ふと宝塚星組の麻路さきの演じたトートが
エリザベートを引き寄せるのに
ファントムが指先で招きこむ仕方をしたのを思い出した。
  
    2001年8月13日 梅田コマ劇場 ちゅ−太
     
                
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